自民と民主の党首討論
昨日、テレビで、自民と民主の党首討論を中継していたので何となく見ていたが、麻生首相のこの発言には驚いた。
驚いた以上に唖然とし、思わず耳を疑った。
こう言ったのだ。
「国民からして今、最大の関心事は西松(建設の違法献金)の問題だと思います。この国民からの目線というものは、一番の関心事であって、これに対して、鳩山代表として、十分に国民に対して、説明を果たされたと思っておられるのでしょうか。」
国民の最大の関心事が西松の問題とは、なんという認識のズレだろうか?
国民はそんなこと以上に、現下の経済不況の行方、明日の生活の不安、雇用不安の問題、年金の問題、医療保障の問題、地方格差の問題、貧困の問題、財政赤字の問題、北朝鮮問題、税金の無駄使いの問題、新型インフルエンザ問題、等々......我が国の将来像の問題に不安を抱いている。
今の政府が無策で期待できないのなら、せめて早く選挙をやり、国民の手に選択権を与えて欲しいとそのことに関心を持っているのだ。
政権与党のトップとして野党とは、政策実現で圧倒的優位の立場にあるはず。
したがって野党との違いを際立たせたいなら、堂々と横綱相撲で受けてこれらの問題に対して解決できる力量を備えていることを自信を持って述べるべきだった。
麻生首相の練られた発言は、不十分でもそのような趣旨のものになるだろうと思っていた。
しかし、むしろ与党側を巻き込んでの政策提言の呼びかけをしていたのは、鳩山代表の方だった。
国民の目からは、どちらが首相の器か、信頼できそうかとの関心がある。
その昔、佐藤首相が記者会見の際に、マスコミのメディアに対して新聞記者の同席は、ダメでテレビの放映は良い。
といったやりとりがあったことを思い出した。
新聞記者は客観的な事実だけでなく、自分の意見も入るが、テレビは、事実を映し出すから良いというようなことでなかったかと思う。
この日の後の報道番組では、この勝負どちらに分があったかなどと色々の人のインタビューなど交えてどっちもどっちと評論していた。
しかしテレビは、ある意味恐ろしい。
どちらが国民に信ありと思われたか、宰相たる器なのかについて、ありありとこの日のテレビは、事実を映し出していた。
麻生首相は、執拗に野党攻撃の発言にこだわり、完全に視線は国民目線にはなく、ただ一点、相手の揚げ足や弱点を突いて選挙を優位にというような狭い器であることを露呈してしまった。
そんな国会内の駆け引きといったコップの中の嵐のような小さな問題については、,国民はどうでも良いのだ、
麻生首相が国民の目には、何でも反対と言われた55年体制の万年野党の党首のように映っていたと感じたのは私だけだっただろうか。
ところで、安岡正篤氏は、「信」について以下のように述べている。
信は、のびると読み、まかすと読む。
人は、信であって始めてのびるし、それは又、大道にまかすことだ。
国民に信があるかどうか。
国家興亡の大原則だ。
信の語源を探ると、ニンベンは人で、言は、神に誓うことだ。
信とは、人が神に誓うことで誠であることでもある。
天の道の誠から外れることは、悪である。
国会議員は、国民が信じて任せるもの。
この党首討論は、ほとんど内容の無い無駄な45分であったように感じた。
国民の関心事を言うのであれば、国家興亡の手遅れにならないうちに早く国民に信を問うて欲しいのだ。



